遺伝子工学からバイオテクノロジー(生物工学)へ 新展開バイオテクノロジーの世界 坂本 正義(バイオインダストリー研究会主宰) この一、二年、遺伝子組み替えだ、細胞融合だ、と大さわぎしてきた世間だが、ここへきて表面的にはなんとなく沈静化してきた感がある。それというのも、インシュリン(糖尿病特効薬)、成長ホルモン(小人症特効薬)、インターフェロン(がん、その他の難病治療薬)といった遺伝子工学特有の医薬品開発が、厚生省への申請からいよいよ臨床試験の段階へと進み、舞台がお役所やおえらがたたちのなにやら審議会の手に移りつつあるからだ。このことは、ジャーナリズムから隔離された密室でのスケジュールを意味する。そして、内実は、医薬品開発各社間の競争がますます深刻化しているにもかかわらず、かえって表向きの動きは静かとなり、一般にはなにか中だるみといった印象を与えているといえよう。この点をもう少し取り上げてみよう。 臨床試験でもっとも早かったのは、昨年十一月から行われているスウェーデン・カビ社製品の成長ホルモンだが、この製造ノーハウは有名なアメリカのジェネンテック社から出ており、例の大腸菌を宿主とする遺伝子組み替え手法で作られる。ところで、この臨床試験を担当している東京女子医大の鎮目和夫氏によると、この薬は大腸菌からの抽出・精製に問題があるという。それは前からいわれていたことだが、副作用が介在するということだ。ということになると、大腸菌へ遺伝子の組み込みによる他の薬品、インシュリンやインターフェロンの場合にも同様な問題があるということになり、薬事審議会の審議にも微妙な影響が起きるかも知れない。 ことに、開発に七社が競合的に集中しているといわれるγ-インターフェロン(T型リンパ球細胞から作られる物質)の場合が問題である。塩野義製薬、ミドリ十字、武田薬品、協和発酵らがつぎつぎと臨床試験に移ると予定される本年末から来年にかけて、役所側の対応も楽ではない。厚生省は委員会を設けて、審査のためのインターフェロン品質基準づくりにはいっているが、これからが長くなりそうだ。というわけで、遺伝子工学でもっとも早く実用期を迎えるであろうといわれてきた医薬品開発だが、その行政的手続きにまだまだ時間がかかるし、ここにきて表面的には静かな中だるみの時期にはいったのである。 ところで、遺伝子、遺伝子といった過剰キャッチフレーズのかげに、最近、少し違った局面が展開しはじめている。注意深い読者ならば、すでに気付いておられることだろう。それは、バイオテクノロジー、バイオインダストリー、バイオリアクター、バイオセンサーといった「バイオ」含みの言葉がかなりな頻度でジャーナリズムに登場しはじめていることだ。 だが、大方の読者からみれば、どうもこれらの片かな名詞はなじみにくいし、ピンとこない。「バイオ」というのは、もともと「生物」のことらしいが、一体、遺伝子工学とバイオテクノロジー(生物工学)とはどう違うのか。読者によっては、遺伝子工学もバイオテクノロジーもまったくおなじ意味だと思っている向きもある。ここでは、七面倒くさい説明は一切省略するが、要するに、遺伝子は生物の一部分にすぎないのだから、もともと生物に含まれる。それとおなじく、バイオテクノロジーは遺伝子工学を含んだ言葉で、ずっと意味が広い。 それにしても、なぜいまごろになって、わざわざ「バイオ」、「バイオ」といって、遺伝子工学とは別のものと印象づけようとするのかといえば、そこにはやはり重要な意味が潜んでいるのだ。それは、遺伝子工学とは直接関係がないにもかかわらず、微生物(乳酸菌、酵母など)の画期的な工業的利用法が実用化され、現実化してきたからだ。しかも、このバイオテクノロジーは、われわれの生活にもっとも身近な食品の世界で起こってきたのである。そこで、そのキッカケとなった話から紹介しよう。 ある大手メーカーが、昨年十一月、醤油の「バイオリアクター(生物反応器)」による新製法の開発に成功した、と発表した。 ここで、「バイオリアクター」の説明はのちに譲るとして、この新製法がなぜ画期的なものかというと、とにかく、製造期間にしても設備・運転投資ともども製造効率にして、従来の製法を二ケタぐらい縮小してしまうからである。 ただし、試作の結果、新製品が味、香りの点でまだ完全ではない。 ここで、話をもとに戻し、バイオリアクターによる醤油の製法とその画期性について、あらましを従来法の極上品にくらべ、60~70%の出来栄えだ、とつけ加えた。つまり、そのバイオ醤油は、実用期が近いとはいえ、いまのところまだ幻の状態にとどまっていたのである。 ところが、この大手メーカーの発表よりやや遅れた十二月のある日、四国・徳島県の醤油中小企業の一つ、加賀屋醤油と、大阪市のベンチャービジネス、モリタ食材開発研究所が共同発表で、「バイオリアクター」によるバイオ醤油製法は、すでに両社によって100%成功していると述べ、試作品サンプルを参集者たちに供試した。 参集者たちは、その味、香りとも極上品に遜色のないこと、とくに従来品に比し、それほど塩からくない特色に一驚した。兵庫県のある醸造試験場長が、ついに極上品のお墨付きを与えるということになった、 つまり、「幻のバイオ醤油」はすでに実在していたのである。しかも、地方の一中小企業とベンチャービジネスの手によってである。 ここで、話をもとに戻し、バイオリアクターによる醤油の製法とその画期性について、あらましを解説しよう。従来の醤油製法は、大豆と小麦と麹を原料として混ぜ、乳酸菌や酵母の力によって発酵させるのだが、菌をゆっくり増殖させるとともに有害な雑菌を抑えるための塩をかなり加えなければならない。そして発酵槽中で熟成したものを圧搾して醤油を得るのだが、材料の仕込みから製品までに約六ヶ月という長期を要するだけでなく、この方法が回分法(バッチ法)といわれるように一回ずつで作業が途切れ、ふたたびはじめからの繰り返しになるという欠陥がある。 それにくらべて、バイオリアクター法は、連続法とか速醸法とかいわれるように、作業がまったく連続的におこなわれるので、仕込みから製品までの平均をわずか二週間という短期間に縮小できるのである(上図参照)。その技術的な特色は、従来法による発酵槽内部での反応工程をシステム的に分解して、シリーズに五つの反応槽として並べて連結し、材料を順々に通過させるというわけである。それをもう少しくわしく解説しておこう。 第一の反応槽は、材料を仕込み、混成され、ここで加水分解により、もろみが準備されるところで四日を要する。つぎに、三つの発酵槽が並んでいるが、それぞれ乳酸菌、アルコール発酵酵母、熟成酵母と区別され、平均一日ずつの工程である。そして最後の反応槽に移り、熟成七日間で作業を完了する。計二週間というわけだ。ところで、以上のバイオリアクター方式で、もっとも技術的エッセンスともいうべき部分は、発酵の触媒役を演ずる微生物をどのようにして、発酵槽中に固定化するか、ということだ。 が、この点は企業秘密に属するということで、ほとんど明らかにされていない。 さて、設備の規模だが、反応が連続的なので、全体的に小型化できる。費用としては、従来法の十分の一程度ですむという。となると、工程期間で十数分の一、費用で十分の一、合わせて製品コストで百分の一以下になるわけで、まことに画期的な方法だということが理解できる。 地方の一中小企業とベンチャービジネスによるバイオ醤油製法の発表は、食品業界の大手筋に大きな影響を与えた。両者に対して、早速、ダイエー、武田薬品、協和発酵などが間接に、あるいは直接にアプローチしてきた。また、共同通信を介して諸外国に報道されるや、フランスやアメリカからの問い合わせ、引き合いがはじまった。フランスからというのは、ソルビットやアルコールメーカーとして著名なロンプーラン社だという。 このような、みずからひきおこした大きな渦のなかで、両社はどのような道を選ぼうとしているのだろうか。両社は、中小企業として、また巷間のベンチャービジネスとして多年にわたり大手にいじめられ苦闘してきた経験をもっている。大手に対してはけっして良い印象をもってはいない。いまこそ、若干の技術的リードをもってはいるが、やがて追いつかれてしまうのが、この業界の宿命だ。かりに特許その他が順調に解決されるとして、大手に対抗し、相当程度に市場を席巻しうるかも知れない。だが、両社をしてその道をとらしめなかったのは、全国三千といわれる中小の同業者たちを苦境に陥れないことだった。 いま、両社はアメリカの液晶メーカー、スズキ・インターナショナルと組み、アメリカ進出の道を選びつつある。周知のように、アメリカでの醤油(ソイ・ソース)の普及はすごい。いまでは、ソイ・ソースを置かぬレストランは一軒もないといわれるほどだ。すでに醤油メーカーは百五十社を数えるという。アメリカは、醤油にとって洋々たる市場だ。それに、特許問題もほとんど障害がない。が、両社にとって、なんと言っても好都合なことは、市場進出に対して業界特有な因習や偏見の少ないこと、ベンチャービジネスへの評価や受け入れが社会的に定着していることだという。 |
サンデー毎日 1983年(昭和58年) 11月6日 |